2015年1月24日土曜日

思うこと

憎しみの連鎖がとまらない。

なぜここまで来てしまうのか。今まさに日本人がイスラム国から殺害予告をされている。そして先日のフランスで起きたテロ事件とデモ。

テロ事件は絶対に許されない。テロはなんの解決にもならない。どんな理由があるにせよ、人を殺めるのは間違っている。その上で敢えて理解できないと言いたいのが、フランスのテロ事件の発端と言えるシャルリの風刺画だ。イスラム教の創始者であるモハメッドを風刺した絵。これはどうしても理解できない。

熱心とは程遠いが一応ながらも自分はクリスチャンだと思っている。確かにクリスチャンになったばかりのときは、みんなクリスチャンになるべきだ、と思ってもいた。一神教であるクリスチャンという信仰のもとで初めてアンコールワットに訪れたとき、なぜ仏教とヒンドゥー教さらには土着の信仰までもが混在するのかまったくわからなかった。理解ができなかったと言ってもいいかもしれない。仏教なら仏教、ヒンドゥー教ならヒンドゥー教でお互いに相容れることはおかしいのではないか、と思っていた。それでもアンコールワットの魅力に取り付かれて何度も通ったり、本を読んだりしていく中で、そのような信仰の持ち方もあるのだ、と思えるようになってきた。もともと様々な宗教を良くも悪くも吸収してしまう日本のDNAを持っていたからなのか、なんでも受け入れてしまう仏教もそれはそれでありなのかな、とも思うようになってきている。そんなこともあり、あまり違和感なく寺巡り・仏像巡りに勤しんでいる面もあるのかもしれない。

たぶん、これは熱心なクリスチャンやイスラム教徒からすれば有り得ない考え方なのだろう。唯一絶対の神が存在している以上、「神々」などという言葉すらあり得ないはずだ。それもよくわかる。そして、宗教は自己と一体化されているものでもあるからこそ、さらに繊細な事柄にもなる。

あの風刺画だ。フランスの表現の自由を大事にする精神はわかる。でも、個人的に風刺画の文化は理解できない。人を傷つけてまで、それも心の奥深いところに根ざしている宗教という人の人格や生き方の部分まで土足で踏み込むような風刺画にはまったく理解ができない。

日本で原発事故が起こったとき、シャルリは複数の足を持つ力士を描いた風刺画を発行し、日本側が抗議したところ逆に日本はセンスがないと呆れられたという。彼らは原発事故で苦しんでる人々の気持ちがわからないのだろうか。家を離れることを余儀なくされ、不安定な生活を強いられている人々の思いや気持ちを汲み取る心はないのか。その風刺画を描くことで何をしたいのか、と問いたくなる。事故対応などの不備、原発問題を批判するならば、別の描き方もあるだろうに、と思ってしまう。

モハメッドの風刺画もよくわからない。そんなことをしたら、敬虔なイスラム教徒が怒るのは当たり前だろう。それがテロに繋がるのは間違っているが、ほんとうに一生懸命にイスラム教の教えを守って平和に暮らしてる多くのイスラム教徒達は怒るのもそうだが、やはり傷つけられているのではないだろうか。

イスラム過激派によるテロが起こると、決まってイスラム教徒のモスクを始め、イスラム教徒たちへの嫌がらせや暴力が起こる。これだって立派なテロだろう。ただ憎しみのはけ口にしているだけだ。

宗教というのはとても難しい。人の生き方そのものにかかわってくるからそ、熱心になればなるほど危険性もはらんでくるのかもしれない。良いと思われるものはなんでも受け入れてしまう、という日本の文化を理解してもらうのも難しいだろうし、一神教である宗教を日本側が理解するのも難しいのだろう。文化は宗教と深くつながっている。宗教から文化が生まれ、文化の中で宗教も変化する。

これからの時代、世界はますますグローバル化が進み、様々な価値観、宗教観を持った人たちが交差し交流する場が増えるだろう。そのとき、理解できないからと拒絶するのか、理解できないけれど受け入れるのか、平和を創るのか、暴力で相手を従わせるのか。

憎しみの連鎖がとまらない。その憎しみの応酬の中で苦しむ人々、特に子どもたちの姿を見るのが辛い。彼らこそ何の罪もないのに、暴力の応酬の中で暮らすことを余儀なくされている。

答が見えない。でも模索し続けていかないといけない。

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