2015年2月28日土曜日

幸田露伴 「五重塔」

最近、興味深いことがたくさんありすぎて時間が足りない。思えばよくここまで広げたものだと思うが、気になってしまい始めるととことん知りたくなってしまうところもあるようで、本を手に入れるのを止められない。そして読む時間が足りない。

例えば・・・カンボジアのアンコールワット ⇒ 仏像 ⇒ 仏教 ⇒ 法隆寺 ⇒ 五重塔 ⇒ 宮大工 ⇒ 三重塔 ⇒ 法輪寺 ⇒ 幸田文 ⇒ 幸田露伴「五重塔」

アンコールワットから幸田露伴の「五重塔」に行きつく人はなかなかいないだろうなぁ、と自分でも笑ってしまうが、行きついてしまったのだからどうしようもない。ということで、早速手に入れて読んでみた。

もともとアマゾンのレビューを読んで、文体が難しい、とか、同僚から幸田露伴の文章は読みにくいよ、と言われていたので、それなりに覚悟はしていたが、さすがに最初は戸惑った。レビューにあったように、「。」がほとんどない。文庫本の1ページに1個しかないことなどざらである。今の時代にこのような文章の書き方をしたら、先生から「一文が長すぎるからわかりにくい。短くしなさい。」と注意されてしまいそうな文章だ。



それでも不思議なもので、読み進めていると少しずつではあるけれど、その文体に慣れていくようで、それなりのスピードで読めるようになってきた。ただ、カギカッコなどがないので、ときどき誰のセリフだかわからなくなって読み返すこともあったが、慣れというのは不思議なものでだんだんこの文体が心地よくもなってくる。そして、この文体のリズムがまたいい感じでもある。日本語ってリズム感があるんだな、と別の発見もしてしまった。もともと薄い文庫本だったこともあり一日で読み終えることもできた。

そして、面白い。

五重塔にもともと興味があったからなのかもしれないが、面白い。アマゾンのレビューが高評価だったのもうなずける。この慣れない文体でありながらも、慣れてくると一気に読み進めてしまうのだから、リズムや内容がすばらしい、ということなのだろう。

読み終えてしまったが、もう一度読んでみたい、と思わせてもくれる。最初は文体に慣れることと、内容との両方を同時にやっていかないといけなかったわけだが、二回目になればもう少し楽に読めるはずだし、内容にもっとのめりこむことができるような気がする。

意外とこの文体が気に入ってしまった。日本語ってすてきだ。



 

2015年2月23日月曜日

小さな弥勒菩薩が魅力的 ~~野中寺~~ 

今月18日、18日にしか開帳しないという三つの仏像を拝観するべく、三つのお寺を訪問してきた。道明寺、葛井寺、そして野中寺だ。三つとも大阪府にあるのだが、奈良との県境に近く、隣接しているので助かる。

道明寺には国内で7体しかないという国宝の十一面観音像があるということで、ぜひお目にかかりたいと思っていた。また、葛井寺にはこれまた数少ない、実際に腕が千本あるという千手観音像があるので、こちらも必ず拝観しようと思っていた。悩んだのは野中寺だった。道明寺も葛井寺もそれぞれ駅から歩いて数分のところにあるのに対し、野中寺は駅からバスに乗る必要があった。仏像も小さく、写真で見る限り、失礼だがそれほど魅力的に見えなかった。そんなこともあり、当日まで野中寺には行かなくてもいいかな、と思っていた。

ところが、道明寺や葛井寺をまわったあと、思ったより時間があまってしまったのと、野中寺に行くバスの本数が多いこともあり、一応行ってみるか、ということで寄ることにした。

そしてなんと、この野中寺が一番気に入ってしまった。行かなくてもいいかな、と思ってしまった自分が恥ずかしい。もちろん、道明寺の十一面観音も葛井寺の千手観音も会う価値は十分あったし、行って良かったと思う。しかし、一番良かったのは野中寺だった。自分の勘ほど当てにならないものはない、と苦笑しながら帰ってきた。

バスで行く必要があるからなのか、野中寺は他の二つのお寺に比べると拝観者がぐっと少なくなる。道明寺も少なかったが、野中寺はほとんどいなかったに等しい。矢印に沿って本堂の右手をさらに奥へ進むと受付がある。そして拝観料を払ってさらに中に入ると、小さな部屋に小さな厨子が置かれ、その中に小さな弥勒菩薩が鎮座していた。ちょうど私の他に二人の拝観者がいたので、三人で職員の方のお話を聞くことができた。

見た瞬間に、小さな仏像でかわいらしい、と思った。半跏思惟のしぐさで、右手の人差し指と中指をそっと頬に触れている。広隆寺や中宮寺の半跏思惟像と異なるのは、頬に触れている手の平が前を向いているということなのだそうだ。少し頭でっかちな感じがするが、あまり違和感はない。何をそんなに一生懸命考えているの?と声をかけたくなるような優しい雰囲気を持っている。

説明を聞いて初めて知ったことなのだが、この辺りは河内という場所で、南北朝時代など多くの時代に主戦場となり、この野中寺の伽藍もほとんどすべて焼けてしまったのだという。この弥勒菩薩像は小さかったから、急いで逃げるときに布にくるんで持ち出すことができたから、今日まで残っていたのではないかという。本堂の手前の両側に塔と金堂の礎石が残っていたが、なるほどそういうことだったのか、と思う。

塔の礎石 心礎
金堂の礎石

礎石の大きさや配置から、塔は五重塔だったのではないか、と言われているらしい。となると、法隆寺の西伽藍と同じ配置になる。門を入って左手に塔、右手に金堂、そして正面に講堂である。法隆寺好きとしては、野中寺のポイントが高くなるのに十分だ。ただ、法隆寺と異なるのは、野中寺では塔と金堂がお互いに向き合う形で建っていたのだという。後で調べてみたところ、法隆寺よりは新しく四天王寺よりは古いのではないか、ということだった。

境内には梅の木があり、少しずつ咲きはじめていたが、満開まではもう少しかかりそうだった。野中寺、なかなかすてきなお寺だった。

2015年2月20日金曜日

小川三夫棟梁 実演+講演会 at 名古屋

先日、楽しみにしていた講演会に参加してきた。小川三夫棟梁の実演+講演会だ。小川棟梁といえば、法隆寺の宮大工・西岡常一棟梁の唯一の弟子として知られている。その小川棟梁もすでに60歳を超えている。この機会を逃したら、今度いつこのようなチャンスがあるかわからない。そんなこともあり、ずっと楽しみにしていた。

場所は名古屋のトヨタ産業技術記念館のホール内。先着100名と書いてあったのに、あとからのレポートを読むと260名の人たちが参加していたらしい。早めに並んで前から二列目に座ることができたので良かったけれど、260名も入れるのであれば「先着100名」という文言はいらなかったのでは・・・と少々不満が残る。

が、内容は素晴らしかった。90分という時間だったが、あっという間である。もっといろいろな話を聞きたかったし、実演も見ていたかった。

小川棟梁については本やネットの情報しかもっていなかったのだが、とても気さくな感じの方で、話もとても面白い。でも、きっと仕事場では厳しいのだろうな、と思った。今回、3人のお弟子さんたちを連れてきていたのだが、彼らの振る舞いを見ていると、小川棟梁の厳しさがなんとなくわかる気がする。小川棟梁が話しているときは、3人とも直立不動なのだ。そして、作業をするときもとても迅速に動くし、動きに無駄がない。小川棟梁が特に指示をしなくても、自らの作業をわきまえていて、すぐに動く。これは日ごろからきちんとした指導を受けていなければ、なかなかできないことだと思う。このような場では、笑いを交えてとても優しい感じで話をされるのだが、やはり仕事場では妥協を許さない、良い意味で厳しい棟梁なのだろう。

今回、初めて槍鉋が使われているところも見学できた。槍鉋そのものは展示品を見たことがあったし、使われているところをテレビで見たこともあったが、本物を見るのは初めてである。あの法隆寺や薬師寺の柱はこの槍鉋で削られている。あの柔らかい感触がよみがえってくるようだった。基本、お弟子さんが実演してくれるのだが、時々小川棟梁も実演してくれる。そうなると一気にシャッター音が増え、やはりみんな小川棟梁の技を見たいのだなあ、と思う。もちろん私もだが。前の方に座っていたこともあり、槍鉋で削ったときにできるくるくるとした削りかす(?)をもらうことができた。今は、大事に家に飾ってある。




他にも木組みを実際に組み立てる実演をしてくれて、なるほどと感心させられた。本当に釘などを全く使わず積み木のように組み立てていく。これが法隆寺、薬師寺はもちろん、唐招提寺などの多くのお寺で用いられている木組みなのだと思うと、本当に興味深い。まだまだその仕組みを理解したとは言い難いが、こんどお寺を訪れたとき、また見る目が違ってきそうだ。



小川棟梁の話はいろいろと面白かったのだが、一番印象に残ったのは、「良い道具を持てば、自然と良いものを作りたくなるんです。」という言葉だった。道具、特に大工にとっては鉋などの研ぎが重要なわけだが、しっかりと研がれた良い道具を持っていれば、こちらがあれこれ言わなくても、彼らは自ら良いものを作りたいと思い、作れるように努力していくのだという。だからこそ、まず研ぎなのだ、と語っていた。きっとこれは大工だけに言えることではないだろう。良いものを持つ。良いものを持つことで、良いものを生み出したいという願望が生まれる、というのは、すべての仕事や場面でも言えることのように思う。自分にとって、とても大事な言葉になった。

講演終了後も、多くの人たちが残り、鉋を体験させてもらっていたり、小川棟梁に話しかけたりしていた。私もできれば話を聞いてみたかったのだが、性格上なかなか自ら声をかけることができない。槍鉋のことだってもっと聞いてみたい、触ってみたい、という思いはあるのに、結局何もできず、何も話せず会場を後にしてしまった。後悔しても仕方がないが、もう少し勇気を持てばよかったなあ、と少し反省する。

とにかく楽しかった。小川棟梁が最初に手掛けた法輪寺の三重塔をもう一度見に行かなきゃ、と思ったのは言うまでもない。

2015年2月8日日曜日

入江泰吉記念 奈良市写真美術館

先日、奈良の入江泰吉記念奈良市写真美術館に行ってきた。写真を趣味としているにもかかわらず入江氏のことはあまり知らず、最近になって知人から大和路の写真家といえば、と聞いて、これは行かなければと思っていた場所だ。以前、訪れた新薬師寺のすぐ裏手にあり、新薬師寺を訪れたときになぜ訪問しなかったのか自分でも不思議である。

こぢんまりとしたモダンな建物の地下一階に、入江氏の写真がずらりと並べられている。彼の写真を見て瞬間に思ったのは、「眼差しが優しい」ということだった。まったくの素人目なのだが、眼差しが優しい写真はなぜかすぐにわかる。あ、この人は本当にこの場所が好きなのだな、と伝わってくる。

私が好きなお寺や仏像、そして大和路の風景の写真を見ていると、こんな視点もあったのか、と勉強になる。もちろん、基本的には仏像の写真をとることは不可能で、入江氏だからこその写真でもあるのだが、お寺や風景の写真は一見何でもないような場所でも、切り取り方でこうも違うものなのか、と改めて驚かされる。

家に帰ったあと、入江氏の写真やエッセイ集を読んだ。そして感じたことは、良い写真を撮るには「撮らせてもらう」という気持ちが大事だということ。無理やり良い写真、良い構図を作り上げようとしてもダメなのだと思った。お寺にしても風景にしても、良い構図はどこにでもあるはずで、それを見つけられるかどうかは自分の目にかかっているのだとも思った。イメージを持つことも大事だけれど、入江氏のように奈良に暮らしているわけでもなく、あっと思ってすぐに駆けつけるわけにもいかないからこそ、その場その場の天気や空気、そして風景を撮らせてもらう、と思った方がいいのだな、と思うようになった。

切り取り方。これは本当に難しい。今度奈良に行くときはがんばって200㎜を持って行こうかどうしようか悩んでいる。200㎜という望遠レンズは切り取り方が本当に難しい。広角レンズだと割合と簡単に、それなりの写真が撮れるのだが、望遠レンズの場合は切り取り方を考えないとまったく良い写真が撮れない。だからこそ勉強にもなるのだが。今度訪れようと思っているお寺はすべて一度は行ったことのあるお寺ばかりなので、200㎜で冒険するのも悪くないかもしれない。

室生寺、長谷寺、唐招提寺、薬師寺、東大寺、興福寺、法隆寺。どう切り取るのか。どのようなまなざしを向けるのか。挑戦してこようか。