2015年1月24日土曜日

思うこと

憎しみの連鎖がとまらない。

なぜここまで来てしまうのか。今まさに日本人がイスラム国から殺害予告をされている。そして先日のフランスで起きたテロ事件とデモ。

テロ事件は絶対に許されない。テロはなんの解決にもならない。どんな理由があるにせよ、人を殺めるのは間違っている。その上で敢えて理解できないと言いたいのが、フランスのテロ事件の発端と言えるシャルリの風刺画だ。イスラム教の創始者であるモハメッドを風刺した絵。これはどうしても理解できない。

熱心とは程遠いが一応ながらも自分はクリスチャンだと思っている。確かにクリスチャンになったばかりのときは、みんなクリスチャンになるべきだ、と思ってもいた。一神教であるクリスチャンという信仰のもとで初めてアンコールワットに訪れたとき、なぜ仏教とヒンドゥー教さらには土着の信仰までもが混在するのかまったくわからなかった。理解ができなかったと言ってもいいかもしれない。仏教なら仏教、ヒンドゥー教ならヒンドゥー教でお互いに相容れることはおかしいのではないか、と思っていた。それでもアンコールワットの魅力に取り付かれて何度も通ったり、本を読んだりしていく中で、そのような信仰の持ち方もあるのだ、と思えるようになってきた。もともと様々な宗教を良くも悪くも吸収してしまう日本のDNAを持っていたからなのか、なんでも受け入れてしまう仏教もそれはそれでありなのかな、とも思うようになってきている。そんなこともあり、あまり違和感なく寺巡り・仏像巡りに勤しんでいる面もあるのかもしれない。

たぶん、これは熱心なクリスチャンやイスラム教徒からすれば有り得ない考え方なのだろう。唯一絶対の神が存在している以上、「神々」などという言葉すらあり得ないはずだ。それもよくわかる。そして、宗教は自己と一体化されているものでもあるからこそ、さらに繊細な事柄にもなる。

あの風刺画だ。フランスの表現の自由を大事にする精神はわかる。でも、個人的に風刺画の文化は理解できない。人を傷つけてまで、それも心の奥深いところに根ざしている宗教という人の人格や生き方の部分まで土足で踏み込むような風刺画にはまったく理解ができない。

日本で原発事故が起こったとき、シャルリは複数の足を持つ力士を描いた風刺画を発行し、日本側が抗議したところ逆に日本はセンスがないと呆れられたという。彼らは原発事故で苦しんでる人々の気持ちがわからないのだろうか。家を離れることを余儀なくされ、不安定な生活を強いられている人々の思いや気持ちを汲み取る心はないのか。その風刺画を描くことで何をしたいのか、と問いたくなる。事故対応などの不備、原発問題を批判するならば、別の描き方もあるだろうに、と思ってしまう。

モハメッドの風刺画もよくわからない。そんなことをしたら、敬虔なイスラム教徒が怒るのは当たり前だろう。それがテロに繋がるのは間違っているが、ほんとうに一生懸命にイスラム教の教えを守って平和に暮らしてる多くのイスラム教徒達は怒るのもそうだが、やはり傷つけられているのではないだろうか。

イスラム過激派によるテロが起こると、決まってイスラム教徒のモスクを始め、イスラム教徒たちへの嫌がらせや暴力が起こる。これだって立派なテロだろう。ただ憎しみのはけ口にしているだけだ。

宗教というのはとても難しい。人の生き方そのものにかかわってくるからそ、熱心になればなるほど危険性もはらんでくるのかもしれない。良いと思われるものはなんでも受け入れてしまう、という日本の文化を理解してもらうのも難しいだろうし、一神教である宗教を日本側が理解するのも難しいのだろう。文化は宗教と深くつながっている。宗教から文化が生まれ、文化の中で宗教も変化する。

これからの時代、世界はますますグローバル化が進み、様々な価値観、宗教観を持った人たちが交差し交流する場が増えるだろう。そのとき、理解できないからと拒絶するのか、理解できないけれど受け入れるのか、平和を創るのか、暴力で相手を従わせるのか。

憎しみの連鎖がとまらない。その憎しみの応酬の中で苦しむ人々、特に子どもたちの姿を見るのが辛い。彼らこそ何の罪もないのに、暴力の応酬の中で暮らすことを余儀なくされている。

答が見えない。でも模索し続けていかないといけない。

2015年1月20日火曜日

西岡常一棟梁 墓参り

西岡常一棟梁といえば、法隆寺最後の宮大工と言われる方。法隆寺が私の寺巡り・仏像巡りの原点だけあって、法隆寺の宮大工だった西岡常一氏の本を読んだり、DVDを見たりしていた。特に西岡氏の書いた本からはいろいろと考えさせられること、思わされることが多くあり、自分に影響を与えた本の一つに挙げてもいいと思っている。

そんな西岡氏は残念ながらすでに他界されている。敢えて言わせてもらえれば、直に話を聞いてみたかった。講演会などはされていたのだろうか。

その西岡氏の墓参りをしてきた。もちろん、勝手に、である。知りもしない方の墓参りを勝手にすることはもしかしたら迷惑になるのかもしれないが、どうしても墓前に手を合わせたくて勝手にいろいろと調べてしまった。ネット社会の情報量はやはりすごいもので、西岡常一氏のお墓がどこにあるのかの検討がついた。行ってみて見つからなくても仕方がないと思っていたので、まずはとにかくその場所に行ってみようと思っていた。

この日は朝から青空が広がり、ピンと引き締まる寒さだった。雲は多いものの、風もなく穏やかな日だった。寒いのはあまり得意ではないのだが、風がなく気温が低い晴れた日は嫌いではない。いや、逆に好きかもしれない。ピンと張りつめた冷たい空気の中を、白い息を吐きながら歩く。身も心も引き締められるような感じになり、寒いながらも好きな気候の一つである。

JR法隆寺駅から車通りの激しい道を渡り、のどかな畑の中の道を歩くこと30分弱。西岡氏のお墓がある場所に着いた。斑鳩神社の裏手にある墓地だ。大体どの辺りにあるかはネット上の情報で得ていたものの、やはり実際に行ってみるとなかなか見つからない。西岡家の墓、と書かれた墓石がいくつかあり、西岡常一氏のお墓がなかなか見つからなかった。あまり墓地をうろうろしているのも気が引けるし、変に思われてしまうかもしれない、という不安もあり、一度はあきらめようかとも思った。それでもあと一回探してみよう、と見て回ったときにやっと見つけたのだ。

西岡常一氏の墓石の前で手を合わせた。赤の他人でもあるし、お会いしたこともない私である。それでもまずは「ありがとうございます」と伝えた。不揃いだからこその良さ、癖を生かす、100年・1000年先を見る。西岡氏が残した文章の中には、自分にとってとても大事な言葉がいくつも書かれている。これからもその言葉を大事にしていきます、とも伝えた。

来てよかった。お墓には綺麗な花が添えられていたので、最近親族の方が墓参りに来られたのだろうか。勝手な思いでここまで来たけれど、やはり手を合わすことができて良かった。墓前で手を合わせて語りかけるということは今までしたことなどほとんどないのだが、今回は特別だと勝手に考えた。たまには来させてもらってもいいだろうか。こちらの勝手な思いの行動なので、礼儀的にどうなのか不安な点がないでもないが、心から尊敬の意を込めて手を合わせているということで、ご容赦いただければと思っている。

2015年1月17日土曜日

機織り

カンボジアのシェムリアップに行くと必ずやること。一つはもちろん遺跡巡りだが、もう一つは機織りだ。クロマー・ユーユーという工房で機織り体験を初めてさせてもらったのは、もう5年以上にもなる。

もともと機織りに興味があった。小さい頃、小さい子ども用の機織りのおもちゃをクリスマスプレゼントにもらったこともある。カンボジアやラオス、タイ、ミャンマーでは機織りの工房をいろいろ見学させてもらったし、日本でも見学したことはある。ただ、体験ともなると、なかなか機会はなかった。日本で機織り体験をさせてもらえる場所はあるにはあるが、それこそコースターやブックカバーくらいで値段もそれなりだ。そんなこともあり、興味はあったがなかなか手が出せなかった。

それがふとしたきっかけ、出会いから、シェムリアップの機織り工房で体験をさせてもらえることになり、そのときからずっと、シェムリアップへ行く度に機織りをさせてもらっている。

機織りは楽しい。楽しいからこそこれだけ続いているわけだが、実はとても難しい。慣れてくれば慣れてくるほど機織りの奥深さというか難しさを実感する。最初の頃は、とにかく織ることが目的だったし、織りあがればそれで満足していた。ところが、回を重ねていくと、より良い物を織りたくなる。より綺麗な仕上がりが欲しくなる。すると、今までただ織っていた作業に深みが出てくる。難しい。

経糸を引っ張る強さが左右共に同じになっているか、筬を打ち込む力は均等になっているか、筬に不必要な力が加わっていのか、などなど考えたり確認したり知っておいたりする必要のあることがたくさんある。経糸を引く力が均等でなくても、筬を打ち込む力が均等でなくても、布の濃淡が変わってくる。チェック柄であれば柄が曲がったり太さが均一でなくなってしまう。筬に不必要な力が加わりすぎると、経糸が切れやすくなってしまう。これで、何回経糸を切ったことか。切れても修復方法を学んだので直すことはできるようになっているが、やはり余計な時間はかかるし、リズムも崩れてしまう。緯糸の太さや材質によっても打ち込み方や左右での微妙な引き具合が変わってくる。

そう。頭ではわかっているのだが、実際にやってみると、考えているほど簡単ではない。簡単ではないどころか、とても難しい。だから楽しい。力の入れ具合、筬の打ち込み方など少しずつ自分なりに考えてやってみる。うまくいかなければもう一度考えて変えてみる。その繰り返しだ。そうしていくうちに、なんとなく体がわかってくる部分もあって、なるほどなぁ、と勝手に感心してしまうこともある。

先日、4.5mの生地を織りあげたあと、日本でシャツに仕立ててもらった。自分で織った布がシャツになる。これは言葉でなかなか説明できないほど感動した。着てみてにやけている自分に気づく。

これからまた、機織りの楽しみが増えそうだ。

 

2015年1月8日木曜日

ドライバーのNくん

シェムリアップで毎回お世話になっているドライバーのNくん。今回は残念ながら一緒に行動する事が叶わなかったが、到着したときにわざわざ来てくれたのはとても嬉しかった。帰る前にもう一度くらいどこかで会えたら嬉しいけどなぁ、と思っていたら、最終日の夜に一緒に夕食を取ることができた。

車は会社が所有しているものなので、Nくんがプライベートで利用することはできない。どうするのかな、と思っていたら、案の定バイクで登場した。それも子ども2人と一緒である。後で聞いた話に寄ると、奥さんは今シアヌークビルの方に二番目の女の子と一緒に出稼ぎに行っているという。ということで、第一子の長男と三番目の次女が一緒に来たわけだ。小さな子どもたちとはいえ4人でバイクに乗るわけで、心の中では事故らないで!と叫んでいたことは言うまでもないだろう。

長男は7歳、次女は2歳と本当に本当に可愛い! バイクで5分ほどの所にあるまさにロールな食堂で、ノンバンチョクという麺料理を頂いた。ものすごく柔らかな鶏肉と米粉から作られた麺。唐辛子が入っているように見えたのだがまったく辛くなく、とっても美味しく頂けた。

長男のNaくんは別の種類の麺料理を黙々と食べる。次女のTちゃんはお父さんの麺料理から少しずつもらって食べていた。人見知りと言うほどでもないが、やはりこの人は誰?と不思議そうな顔で見られているようだ。それでも、嫌がられてはいなさそうなので、ちょっとホッとする。ただ、小さい子どもたちと会話をするだけの語学力はないので、もっぱらスマイルスマイルである。

奥さんが働いているのは、カンボジアのビーチリゾートのシアヌークビル。最初、そこに働きに行っているとは知らず、いつ帰ってくるの?と聞いたとき、わからない、一年くらいかな、という答えにびっくりしてしまった。シェムリアップより働く環境がいいからだというが、寂しいだろうなぁ、と思う。彼女の家族が、Nくんが働いている間は子どもたちの面倒を見てくれているようだが、それでも小さな子ども2人の面倒を1人で見るのは大変だろう。そういえば、Nくんの親戚はシアヌークビルにもいるはずだ。将来、Nくんがシアヌークビルに行ってしまう、ということはあるのだろうか。それはそれで寂しくなるな、とふと思ってしまった。勝手な思いだが、奥さんが早く帰ってくるといいのになあ、と思う。

夕食の後、子どもたちが大好きだというラッキーモールに行った。二階のフロアにはこどもたちが遊べるスペースがあって、一回1000リエル(30円程)で、遊具に乗って遊べたりする。日本にもデパートの屋上とかにある、100円を入れて色々な動物や乗り物に乗って遊べるのと同じものだ。他にもテレビゲームやUFOキャッチャーなどもあり、多くの親子連れが遊びに来ていた。Naくんは嬉しそうにあちこち走り回っている。TちゃんはNくんに抱っこされたり、乗り物に乗ったりしておとなしいながらも嬉しそうだ。

そして、スーパーでアイスクリームを買った。一つ1ドルだったので、これは高いと思った。日本のジャイアントコーンの小さいバージョンで、一つ100円程する計算になる。日本のジャイアントコーンは安ければ100円を切るわけで、それと値段が変わらないというのは、やはりカンボジアの水準からするとずいぶん高いと思う。

外にあるベンチに座って2人は美味しそうにアイスを食べていた。Tちゃんは口の周りをアイスだらけにして、Nくんが何度か拭いてあげる。良いパパだなあ、と微笑ましく眺めていた。Naくんは男の子らしく落ち着かない。あっちに行ったりこっちに来たりとNくんに何度か呼び戻されていた。Tちゃんも時々Naくんのところに駆け寄ったりして楽しそうだ。あ~彼らと話ができたらなあ、と思うがまだまだ勉強が足りない。

帰りもまたバイクに乗ってホテルまで送ってもらう。Nくんと私の間にちょこんとTちゃんが座っている。あまりにも可愛くて、ついつい頭を撫でてしまった。カンボジアでは子どもの頭を撫でるのはあまりいいことではないと聞いてはいたのだが、誰も見ていないのをいいことにTちゃんの頭を優しく撫でてあげる。小さい子ども特有の柔らかい髪がふわっと流れる。家ではよくしゃべるというが、今回はほとんどしゃべらなかった。やはり見知らぬ人がいたので緊張していたのかもしれない。

ホテルでバイバイをすると、Tちゃんがぎこちない投げキッスをしてくれた。たぶん意味も分からず、周りが喜ぶからやっているのだろうが、可愛すぎてこちらがにやけてしまう。また夏に会えるだろうか。彼らの成長を見られるのも幸せなことだと思う。元気に育ってほしいと思う。カンボジアの教育事情や様々な生活状況はきっと楽なものではないだろう。奥さんが遠くで出稼ぎに出ているというのも、やはり負担になっていると思う。それでもNくんにはいいパパでいて欲しいと思う。また8月に会えるのを楽しみにしつつ、彼らとお別れをした。

2015年1月7日水曜日

コーケー その② カンボジア

プラサット・トムを見学した後、点在するいくつかの遺跡を見て回った。まずは、プラサット・リンガと呼ばれる祠堂だ。同じ名前の祠堂がいくつかあるのだが、その全てに巨大なリンガがある。祠堂そのものはそれほど大きいものではなく、今ではポツンと建っているだけなのだが、中にあるリンガはどれも巨大である。プラサット・トムのピラミッドの頂上にもこれ以上の巨大なリンガがあったのだろう。なぜこれほどまでに巨大なリンガが必要だったのだろう。リンガはシヴァ神の象徴でもあり、やはり権力を誇示するために必要だったのだろうか。ヨニと呼ばれるリンガの台座には、やはりガルーダの姿を確認することができる。ただ不思議なのはガルーダはヴィシュヌ神の乗り物なのに、なぜシヴァ神の象徴であるリンガを支えているのか、ということだ。日本に戻ってカンボジア語の先生に聞いてみたい。

プラサット・リンガ
次に訪れたのは、プラサット・クラ・チャップという遺跡で、ここは割合と広い。いくつかの祠堂が残されているが、ここの見所は綺麗に残っている碑文だろう。入口付近の柱に残された碑文ははっきりと残っているだけでなく、文字そのものがとても綺麗なのだ。今までに色々な碑文を見てきているが、やはり文字の癖などがあり見るからに美しい文字とそれ程でもない文字がある。このプラサット・クラ・チャップの碑文はとても綺麗な文字で書かれていた。昔の文字なので理解することも読むこともできない。ドライバーさんも一緒に来てくれて、この碑文の場所を教えてくれたが、やはりまったく読めないのだという。文字は今でも利用されているものが多くあるが、やはり単語などが異なるようだ。中をぐるりとまわるが、やはり崩壊が進み多くあるが多くの祠堂が崩れ去ってしまっている。残念だが仕方のないことなのだろう。

プラサット・クラ・チャップの碑文
プラサット・チュラープを簡単に見学したあとに向かったプラサット・ドムライは小さいながらも見応えがあった。ドムライとはクメール語で象を意味するのだが、ここにはまさにその象の像が4体残されていた。祠堂の四隅に立つ4体の象の内、2体が比較的綺麗に残されている。鼻の部分はやはり壊れやすいのか、割れてしまったところを重ねて補修されているが、胴体に施された飾りの鐘や首飾り、優しそうな目などははっきりと残されている。足は短めでどっしりと構えていながらも、可愛らしさも兼ね備えていて、京都の東寺で見た帝釈天が乗る象を思い出してしまった。また、1体だけライオンも残されていた。顔の部分は割れてしまっているが、体全体は綺麗に残っている。すべてのライオンそして象を見ることのできた当時は、とても素敵な祠堂だったのではないだろうか。

プラサット・ドムライの全体像

プラサット・ドムライの象
昼食の前にもう一つ祠堂を見学した。プラサット・チェンだ。チェンは中国という意味を持つのだが、この遺跡の名前が中国に関連することなのかはよくわからない。ここには大きな祠堂が5つ建っている。ずいぶんと崩壊が進み、前面がすべて崩れているものもあるが、なかなか立派な祠堂だったことは想像できる。彫刻も所々に残されており、クメールの神話(ヒンドゥー教の神話)をモチーフにしたものがいくつか確認できた。

さてお昼だが、プラサット・トムにいったん戻り、入り口付近にある食堂に行った。すでに多くの観光客で賑わっており、店員も忙しそうに動いている。ドライバーさんに何が食べたいか聞かれたので、無難に野菜炒め、と答えると、OKとどこかへ行ってしまった。イスに座りながらぼんやりと当たりを見回してみる。ドライバーさんは全然戻ってこない。どうしたのかと思っていたら、なんと自分で台所で料理をしているではないか。そして、豚肉入りの野菜炒めとクメールスープを持ってきた。自分で料理したんですか?と驚いて聞くと、今は客が多くてこのままだとなかなか料理が出てきそうになかったから、という。味はあまり良くないかもしれないけど、恥ずかしそうに言うが、なんのなんのとても美味しい。美味しいです、と言うと、照れながら、ありがとう、と言う。それにしても、自分で料理してしまうとは。それができてしまう食堂って・・・。カンボジアらしい、と言ってしまって良いものなのだろうか。



スープ・野菜炒め・コーヒー
ここで頂いたコーヒーも美味しかった。カンボジアの甘い香りのするコーヒーで、個人的には一般的なコーヒーよりも好きである。ただ、日本では売っているところを見たことがないので、カンボジアで飲むしかない。それでも、最近のカンボジアでは一般的なコーヒーを出す店も増え私からするととても残念な状況になっている。カンボジアのラタナキリという州がこのコーヒーの名産地なので、コーヒー(ラタナキリ)と書いてあると、私が望むコーヒーだということがわかる。普段はコンデンスミルクをいれて飲むのだが、今回はこのコンデンスミルクが切れているということで、普通の牛乳をいれて飲む。香りが良くて大好きである。

それにしても、この食堂の値段差は思いっきり観光客値段である。野菜炒めで6ドルもするのだ。700円と考えれば安いのかもしれないが、カンボジアの値段とすると完全にぼったくりである。地方に行けば2ドルもしない値段のはずだ。それも作ったのはドライバーさんである。なんか納得できない気もしたが何も言わずコーヒーと合わせた合計7ドルを支払う。野菜炒めの最後の一口分をもらったら、ドライバーさん、とても嬉しそうな顔をしていた。

食後に二つの遺跡を巡った。プラサット・ニエン・クマウとプラサット・プラム。ニエン・クマウとは黒い娘という意味を持つのだが、なぜそのような名前がついているのかはわからない。一つの祠堂がポツンと残っているだけだが割合と綺麗に残されている。
プラサット・ニエン・クマウ
個人的に気に入ったのはプラサット・プラムだった。プラムとは5という意味があり、ここには5つに祠堂が残されていた。そのうちの二つには大きな木の根が絡みつき、あたかも根が祠堂を縛り上げている、そんな感じだった。確かにこのような木の根や植物の成長が遺跡を破壊しているのだろうが、ここまでくるとこの木を切ってしまうと逆に祠堂は崩れてしまうのだろう。根によって崩れるのを防いでいるといっても間違いない。難しい状況だと思う。

プラサット・プラムの全体像

プラサット・プラムの一つの祠堂
これでコーケーの見学は終了だ。ブログの順番は逆になってしまったが、この後ベン・メリアに向かった。久しぶりのコーケーだったが、やはり来て良かったと思う。またここもどんどん変わっているのだろうし、観光客も増えていくのだろう。アンコール・ワット周辺に集中しすぎている観光客を分散させるためには、このような地方の遺跡へのアクセスや環境の整備が必要だ。今後、ますます静かに観賞できる遺跡は減っていくのだろうが、それは仕方のないこと。受け入れるしかないことでもある。ただ、遺跡にとってプラスとなるような変化であって欲しいと強く願っている。




2015年1月6日火曜日

コーケー その① カンボジア

久しぶりにコーケーを訪れた。シェムリアップからベン・メリアを経てさらに北東へ向かう。約2時間のドライブだ。しつこいが、本当に道が良くなった。2時間でコーケーまで行けてしまうなんて信じられない。実はコーケーと言っても遺跡が複数存在する場所なのだが、有名なのは何と言ってもプラサット・トムと呼ばれる寺院だろう。ここには大きなピラミッドがあり、その頂上からの眺めは最高だった。ところが、元々の階段が崩れてしまい、何年も登ることができない状況にあった。ところが最近、新しい階段を設置し、上まで登れるようになったと聞き、再訪しようと思い立ったのだ。

入場料は一人10ドルだ。高いと思うか妥当と思うかは、まあ人それぞれだろう。まずはプラサット・トムに向かう。ピラミッドの東側にある祠堂の部分はやはり相当崩壊している。以前は近づけた場所も危険と判断されたのか、ロープが張られて入れないようになっていた。他にも応急処置的に祠堂をロープで固定したり、木材を使って崩れないように固定したりしている部分が目立つ。ある回廊では片側が一列の柱がすべて横倒しにもなっている。頭部と胴体とが割れてしまっている聖なる牛ナンディンもあった。欄干の役割をもつ聖なる蛇のナーガも斜めに倒れてしまっている。それでも、所々に残る破風の彫刻はまさにクメールの彫刻で、見知った絵柄も多い。中央部分は煉瓦造りの塔がいくつもあったようだが、なんとか形を留めているには5塔ほどしかない。
倒れてしまった柱
すべてが巨石にに埋もれる
ナンディンの頭部
そんな祠堂を抜けていくと、前方の視界が開けピラミッド型の寺院が姿を表す。7層になっているこのピラミッド。初めて見た時は、さすがに驚いた。近寄って見てみると、正面にあった階段がずいぶんと崩落している。これでは登ることは不可能だ。歩道に沿ってピラミッドの右側に歩いて行ってみると、木製の階段が取り付けられていて、頂上まで登れるようになっている。もちろん登る。そして、もちろん息が上がる。

プラサット・トムのピラミッド

プラサット・トムの頂上に埋もれる巨大なガルーダ

頂上からの眺めは素晴らしい。周りには何も遮るものがなく、見渡す限りのカンボジアの大地が目の前に広がる。山もなければ何もない。真っ平らの大地が360度広がっている。そして、頂上には巨大なガルーダがいる。元々は頂上にあった巨大なリンガの台座を下から支える形をとっている。綺麗に残っているのは2体のみだが、その2体も腰から下は土に埋れてしまっている。他のガルーダに至っては、崩れてしまって何とかガルーダであることがわかるくらいになっているものや、まったくその形をとどめていないものもある。当時の姿は相当迫力があっただろう。まさに権力の象徴でもあったはずだ。

しばし崩れた巨石に腰をおろして周りを眺めていた。できれば長めに座っていたかったのだが、吹く風は心地よいとはいえ、太陽の影になるものが何もなく、さすがにこの時期でも太陽の日差しを浴びているのはきつい。

ピラミッドから降りて、またゆっくりゆっくり祠堂を見て回りながら戻る。

そういえば、クメール人たちの観光客がずいぶん訪れていた。土曜日だったからかもしれない。多くは食べ物や飲み物を持参していて、どこかのスペースでピクニックでもするのだろう。私のような外国人観光客は、プラサット・トムの入り口付近にある食堂で昼食を取る。このことは、他の点在する遺跡の話と共に次のブログで書こうと思うが、初めて訪れた時は弁当を持参してきた。まだ、地方の食堂で食べるのは衛生的にもまだダメだろう、と言われていた。それが今ではバンテアイ・チュマールでも現地の食堂で食べるようになった。衛生面が向上したのか、私のお腹が慣れてきたのか。一応、今のところお腹の調子は悪くない。

お昼頃には、外国人観光客の姿も増えてきたが、朝一で来た甲斐もあり、静かに観賞することができたのが良かった。外国人観光客が増えたとは言っても、ベン・メリアに比べればまったくたいしたことはない。静かな場合が好きな者としては、いつまでもこうあって欲しいと思うがどうなのだろう。




2015年1月4日日曜日

ベン・メリア カンボジア

シェムリアップから1時間と少しで行けるようになったベン・メリア。観光客もずいぶん訪れるようになったので、それは覚悟の上での再訪だ。それでも、一般的な入口の東側ではなくて南側から入ることになったお陰で、まずは意外と静かに見始めることができた。

祠堂の多くが崩れており、巨石が至る所に山積みになっている。回廊の外側を歩きながらそんな崩れ落ちた巨石の山を見ているとき、ふと平家物語の序文が思い出された。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 

一時はインドシナ半島の大部分を手中に収め、栄華を誇ったアンコール王朝。当時のベン・メリアも相当な威厳のある建造物だったのだろう。それが今では中央塔は見事に跡形もなく崩れ落ち、他の祠堂も多くが瓦礫と化し、観光客がいなければただの廃墟である。悲しいとか寂しいというような感情ではなく、ただただ儚いものだと呟きがこぼれる。多くの巨石の中には彫刻が施されているものもある。足だけが残されているもの、胴の部分だけがチラリと見えるもの、片側が割れてしまったナーガなど、無言のメッセージを送っているようにも見える。
アプサラの足だろうか
踊り子の頭部が見当たらない
回廊の外側を半周ほどしたところで、内側に入れるようにと木製の階段が作られていたので、中に入って見ることにする。そして中に入って苦笑する。一気に観光客の数が増えたからだ。どうも少なすぎるとは思っていた。こんなに静かな訳はないと。どうやら一般的な入口から入ってすぐに回廊の中に入れるようになっているらしい。木製の渡り廊下のようなところ歩き、階段を登ったり降りたりすることで、ベン・メリアの中を探索することができる。それでも一人で歩いていると方向がよくわからなくなってしまうので、ガイドが一緒にいる人たちに後をつけて行ったりしながら見学をしていた。

また昔話になってしまうが、最初に来た頃は道路状況も悪く3時間近くかかった覚えがある。さらに、観光客などほとんど来ない時代だったから、木製の見学用通路などまったくなく、ガイドについて巨石の上を足元に気をつけながら恐る恐る歩いていた。クメール人たちのバランスの良さに驚いたのもよく覚えている。足を踏み外せば大怪我をすることは間違いなく、すべて自己責任で行動しなくてはならなかった。巨石の上を歩く。なるべく彫刻を足蹴にしないようにしたが、どうしてもその彫刻の上に足を乗せなければ次のステップが踏めないときもあり、心の中で謝りつつ足を乗せたこともある。まさにアドベンチャーだった。大変だったが良い思い出でもある。

そんなことを思い出しながらゆっくり歩いて回った。今でも場所に寄っては巨石の上を歩く必要の出てくる場所もあるが、やはり木製の渡り廊下のような所があるのは便利ではある。ただ、その分、昔ながらの雰囲気はずいぶんなくなってしまったような気もするが。
巨石の影にアプサラの姿
上部のレリーフは無残にも削り取られていた
そういえば、ドライバーさんがベン・メリアは中国人観光客客が多いのだと言っていた通り、確かに中国人が圧倒的に多かった。ドライバーさん曰く、ベン・メリアはオプショナルツアーでガイドとしては収入のためにもベン・メリアを勧めるからだとか。失礼ながら、中国や韓国からの観光客が多いと、どうしてもうるさくなるのであまり嬉しくはない。まあ、団体ツアーがメインなので、個人ツアーよりもさらにうるさくなってしまうのかもしれないが、近くにいるのに大きい声を張り上げられるとさすがにげんなりしてしまう。
帰りは東側の入り口に向かったのだが、そこには多くの車が駐車していた。ドライバーさんに電話をしようとしたら、すぐに目の前に現れたのには驚いた。彼らは目が良い。こちらがキョロキョロしている間にすぐに見つけてくれる。トゥクトゥクのドライバーもそう。さすがである。
夕方の5時頃にはシェムリアップに戻ってきた。さすがに疲れたので、夕食も取らず部屋でゆっくりした。そういえば、初日の夜以外、ほとんど夕食を取っていない。お腹も空かず、カンボジアに来ると食べすぎてお腹の調子を悪くしたりするので、夕食は軽く済ますか食べないことが多くなっている。その方が調子がいいのだ。

ぶれてしまったが、三つの頭を持つ像に乗るインドラ神
日本の帝釈天にあたるらしい

変わりゆく街 シェムリアップ

シェムリアップの街は本当に変わった。個人的な思いをこめた言い方をすると、変わってしまった、と言うべきかもしれない。

初めてシェムリアップを訪れたのは2000年より前だったか。当時ではまだ数少ないホテルの一つタ・プロムホテルに泊まった。先日も書いたが、このタ・プロムホテルは当時は高級ホテルに分類されていた。街中の道の赤土のままだった。トゥクトゥクはまだ存在もしなかったし、移動手段といえばチャーターした車かバイタクしかなかった。信号機なんてどこにもなかったし、車よりもバイクの方が多かった。バスだって現地の人たちが利用する古い長距離バスの姿しか見た記憶がない。

それが今ではトゥクトゥクがどこにでもおり、逆にバイタクの姿を見かける方が少なくなってしまった。街中には多くの信号機が取り付けられ、バスや車が走り、夕方にもなると、オールドマーケット付近は大渋滞になる。交通ルールなんてないようなものなので我先にと前へ進もうとし、それによって逆にさらに動かなくなってしまうというい悪循環が繰り返されている。新しい道もどんどん増え、そしてその道の周辺には新しいレストラン、新しいホテル、新しい店が続々と建てられる。

タ・プロムホテルが建つ川沿いを見れば、川向こうなんて民家がポツポツと見える程度で、川では女性が洗濯をしていた。子供達が川に飛び込んで遊んでいる姿もよく見かけた。それが今ではどうだろう。ハードロックカフェができ、新しい大きなマーケットができ、まったく異なる場所になってしまった。

オールドマーケットで売られている物もずいぶん変わった。前々からお土産物屋はたくさんあった。ただ、品揃えはあまり良くなく、めぼしいものといえばクロマーとTシャツくらいしかなかった。それがここ数年の間に様々なグッズが店頭に並ぶようになり、選択肢がぐっと増えた。それはそれなりにいいのだが、残念なのは、現地の人たちが買い物をするような食材を扱う店が減り、観光客相手のスパイスなどを扱う店が一気に増えたことだ。もちろん今でも様々な食材を扱っている店はまだまだ多いし、観光客にとっては面白い市場だとは思う。ただ、変わり様を見てきているだけに、残念に思ってしまう。

昔の方が良かった、と私が言えたものではないのは重々承知なのだが、勝手なブログということで許してもらおうと思う。今回お世話になったドライバーさんに、今のシェムリアップと以前とどちらが好きですかと聞いたところ、前の方が、という答えが返ってきた。すべての人が同じように考えているとはもちろん思わないが、やはり今のシェムリアップは落ち着きがなさすぎる気がする。この目覚ましい発展の恩恵を受けているのも、ごく一部の人のような気がしてならない。富めるものはさらに富を得るが、一般的な庶民はそれほど生活が豊かになったようには見えない。金と権力がある者だけがさらに力を得てしまっているような気がする。

アンコール・ワットは大好きである。でも今のシェムリアップは好きじゃない。もう元には戻れないことも重々わかっている。それでもあえて言わせてもらう。今のシェムリアップは嫌いだ。いつもお世話になっているドライバーくんや、機織り工房で知り合った女性たちはとても良い人たちばかりで、彼らに会いたいからこそシェムリアップに頻繁に来ているが、彼らの存在がなかったら、ここに来る回数は減っていたのではないだろうか。それほど今のシェムリアップには魅力がない。アンコール・ワットだって何回も行きたいけれど、あの混雑ぶりを想像すると、どうしても足が遠のいてしまう。我儘な考えだということはわかっている。だけれども、以前を知っているからこそ、余計にそう思ってしまうのかもしれない。前を知っているだけでも幸せなことだと自分に言い聞かせている。

遺跡以外の楽しみを求める人たちにとっては、シェムリアップの変貌は良いことなのかもしれない。観光客用の洒落たバーやレストランができ、エンターテイメントの数も増えた。夜、遊べるような場所も増えているようだし、子どもが楽しめるような場所も増えているようだ。そんなこともあるのか、小さい子供との家族連れも増えた。そういう意味では、カンボジアも安全になり、観光客も増えて良かったとも言うべきなのかもしれない。

街が変わっていくのは仕方がない。受け入れなくてはいけないこともわかってる。アンコール遺跡は人々を魅了するのに十分なのだから、これからも増えるだろうし、今はまだ静かな郊外の遺跡も交通網がさらに発達すれば、静かに観賞するのはむずかしくなるだろう。それでもカンボジアに来続けるのか。それはきっと人々との関係に最後は関わってくる気がする。ドライバーくんや知り合った女性たちと会いたいと思えば来るだろう。でも、もしその糸が切れたときは・・・。それを今考えるのは少し寂しすぎる。

2015年1月3日土曜日

シェムリアップのホテル

シェムリアップのホテルとは言ってもピンキリなのだが、最近利用させてもらっているフランジパニ・ビラ・ホテルについてまずは少し。

以前はオールドマーケットに近いストゥング・シェムリアップというこれまた中級ホテルに泊まっていたのだが、少し変えてみようと2年ほど前からフランジパニにお世話になっている。オールドマーケットからは歩いて7、8分ほどのところにあるので、ストゥンと比べると若干不便ではあるが、雰囲気は悪くないので利用し続けている。

しかしこのホテル、お湯がめちゃくちゃ熱い。普通、お湯が出ない、というのが問題になるのに、ここでは熱すぎてぬるくできない、というのが問題になる。一度スタッフに見てもらったことがあるほどだ。それである程度のコツをつかめたわけだが、ちょうどいいお湯加減を得るのにコツが必要だというのも何ともカンボジアらしい。

朝食はビュッフェスタイルだが、中級ホテルはだいたいメニューは同じようで、長期滞在をしているとやはり飽きてくる。種類もそれほど多くない。ということで、朝に余裕がある時は外に朝食を取りに行くことも多い。お気に入りはバーイ・サイッ・チュルークという炭火焼の豚肉とご飯。以前はどこで食べても炭火焼の美味しい豚肉だったのに、最近は炭火焼ではないところもあるようで、どこでも美味しいというわけではなくなってしまったのが残念。

個人的に気に入っているのは少し高めだけれどハズレのないマスター・スキ・スープというレストランの朝食メニューにあるバーイ・サイッ・チュルークである。一般的な食堂では5000リエル
前後だがマスター・スキ・スープだと10000リエルくらいする。といっても3ドルしない値段なので少し距離はあるが、一回は食べに行っている。

それにしても、シェムリアップではまだ新しいホテルが建てられているという。私が初めてシェムリアップを訪れた2000年頃はタ・プロムというホテルが高級ホテルで、グランドホテルという超高級ホテルとそれ以外はゲストハウスくらいしかなかった。それが数年後にはタ・プロムは中級ホテルに、さらにエコノミーホテルにとランクが下がり、周りには続々と新しいホテル、それも中級から超高級ホテルまで様々なホテルが建設されて行った。その変化の早さにはただただ驚くばかり。でも、最近は潰れるホテルも出てきた。それでも新しいホテルは建っている。要は中身だと思うのだが、とにかくホテルを建てれば客が来て儲かる、と思っている人もいるように見えてしまう。

たくさんのホテルが建てられれば、環境問題も深刻になってくる。いや、もうすでに環境問題は大きな問題になっている。どうするカンボジア。アンコール・ワットが万が一にも環境問題などの影響で壊れてしまうようなことがあれば、カンボジアの観光業には大打撃だ。いや、大打撃では済まされないかも。もっと環境整備などに政府が力を入れるべきだと思うのだが、なかなかうまくいかないのだろう。他人事とはいえ、大好きなアンコール・ワットに関わることでもあり、心配である。といって、自分が何かしているわけでもないので、ただ言いっぱなしの状態ではあるが・・・。

2015年1月2日金曜日

シェムリアップの年末年始

ここ数年、年末年始をカンボジアで過ごしているが、日本の正月とはまったく異なるので、日本の正月気分がどんな感じだったのか忘れてしまいそうになる。というより、年が明けた、という感覚を味わえないまま新年を迎えているような気もする。

それにしてもシェムリアップの変わりようには言葉を失う。まずクリスマスイルミネーションの内容が格段にグレードアップした。道路には電飾が輝き、ホテル前のスペースにはクリスマスツリーから雪だるままで様々な飾り付けがしてあり、ここは一体どこ?と思ってしまうほどだ。カンボジアで雪だるまというのも変な感じがしないでもないが、オーストラリアでは真夏にクリスマスを祝うわけで、場所が変われば雰囲気も変わるのは当たり前なのだろう。イルミネーションの質が上がったということは、経済的にもある程度豊かになったということなのだろうから悪いわけではないのだが、個人的にはため息しか出てこない。仕方のないことだとわかっているが、なんとなくハリボテのように見えてしまって素直に喜べないのだ。

大晦日も予想通りといえば予想通り。カンボジアはもともと大音量が好きである。結婚式や葬式では爆音とも思える大音量が屋外に流れ、嫌でもそこで何かイベントが行われていることがわかってしまう。そこまでの大音量を流す意味があるのかと不思議に思うのだが、聞くところによると、村の人々に結婚式(葬式)が行われていることを知らせるためなのだそうだ。昔は通信が発達していなかったからわからないでもないが、このご時世に必要なのかは疑問に思うのだがどうなのだろう。

で、シェムリアップの大晦日である。夕食を探しにオールドマーケット周辺に行ったのだが、すでに大音量が響き渡り、ズンズンと低音が響いてくる。何せ店の前に大きなスピーカーを10台近くも積み上げて音楽を鳴らすのだからうるさいに決まっている。警官も繰り出しオールドマーケット周辺をすべて歩行者天国にしてしまった。バイクが入ろうとしようものなら、笛を吹き鳴らして威嚇する。カンボジアの警官は超上から目線で人々に当たるので、良い感じがしない。パブストリートと呼ばれる道周辺は落ち着かない様子のカンボジア人や観光客が少しずつ集まり始めていた。ということで、私は逆にさっさと帰ることにする。

こんな時は、車やバイクもいつも以上に怖い。絶対に飲酒運転が増えるからだ。警官は権力は振りかざすけれど、飲酒運転を取り締まることはしない。こちらが気をつけていても向こうからぶつかってくることもあり得るわけで、とにかく出歩かない方が安全。パーティーとか騒ぐのが好きな人は、こんなシェムリアップも楽しいのかもしれないが、静かな場所の方が好きな私には早く離れたい場所になってしまう。

ということで、大晦日だというのにいつもと同じ時間に寝る。しかし!!! 真夜中にドーン・ドーン・ドーンという音で目が覚めてしまった。打ち上げ花火の音だ。あ〜新年が明けたのね、とおぼろげながら思うものの、こちらは安眠を妨げられた形だ。一体何発の花火が上がったのだろう。歓声も聞こえてきたので、ホテル近くから見えたのかもしれない。しかし、起き上がる気力も興味もなく、ただただ早く静かになってくれと願うばかり。まあ、二年ほど前にシアヌークビルの島に渡って新年を迎えた時は、明け方近くまで低音の響く爆音が聞こえていて最悪だったのだが、それに比べればマシだっただろう。そのうち静かになり、また眠りに落ちることができたのだから。

ただし、次の日の朝はやはりカンボジアだなあと苦笑する羽目になる。まさかね、とは思っていたしのまさかだった。朝食の準備が時間になっても終わっていなかったのだ。6時半からだというのに、6時半の時点ではほとんど食べ物が用意されていない状態である。遅くまで騒いでいたからね、なんて日本では到底通用しないけれど、カンボジアではそうなってしまう。結局、すべてが用意できたのは7時。カンボジアだからね。仕方がないんだよね、思うものの、釈然としない。まあ、日本人の感覚ではあり得ないだろう。いい経験だとは思うが。

そんな年越しである。カンボジアは嫌いではないけれど、暮らす場所ではないなあ、と思ってしまう。大事な友達もいるし、遺跡は素晴らしいし、これからも何度も足を運ぶとは思うが、暮らしてみたいとはどうしても思えない。