2014年9月6日土曜日

キリスト教と仏教

キリスト教と仏教。キリスト教に縁がありながら、奈良のお寺や仏像にはまって思うことを少し。

キリスト教は一神教。仏教は多神教と言っていいかな。気持ちとしては一神教の方が信じられる気がするし、神は一人であって欲しいとは思う。あまりにもたくさんいて喧嘩されても嫌だし。

それでも、多神教を信じる人たち、キリスト教では偶像崇拝と忌み嫌われる行為もなんとなく理解できる。キリスト教では偶像崇拝は大きな罪だ。悪霊への崇拝だとまで言われてしまう。それもわかる。それでも偶像を作りたくなる気持ち、仏像を作り拝みたくなる気持ちもわかる。

神は一人だと信じているので、奈良に行っても基本的には仏像を拝むことはない。でも拝みたくなる気持ちにもなる。

人はやはり見えるものがあった方が安心するのではないか。目の前に、助けてくれるとされる仏の形があれば、やはりすがりたくなるのではないだろうか。実際に目にすることでほっとするのではないだろうか。

何の形もないキリスト教は信仰が試されるのだという。確かに見えなものを信じるということは、見えるものを信じることより難しい。ただ、仏像を拝観しているとき、ふっと心が落ち着く感があるのは、やはりその顔を見ることができるからなのだと思う。

キリスト教も仏教も目指すところは同じ。人々の救いだ。ただし、その方法が大きく異なる。目指すところが同じなのに、方法が異なるからといって、戦争まで起こった。今も宗教戦争や宗教の違いによる争いは、世界のいたるところで起こっている。

一神教は多神教を認められない。それはそうだろう。一神教なのだから。でも、多神教は本当に悪なのか。カンボジアに通い始め、奈良のお寺や仏像に興味を持ち始めてからわらなくなった。

0 件のコメント:

コメントを投稿