道明寺には国内で7体しかないという国宝の十一面観音像があるということで、ぜひお目にかかりたいと思っていた。また、葛井寺にはこれまた数少ない、実際に腕が千本あるという千手観音像があるので、こちらも必ず拝観しようと思っていた。悩んだのは野中寺だった。道明寺も葛井寺もそれぞれ駅から歩いて数分のところにあるのに対し、野中寺は駅からバスに乗る必要があった。仏像も小さく、写真で見る限り、失礼だがそれほど魅力的に見えなかった。そんなこともあり、当日まで野中寺には行かなくてもいいかな、と思っていた。
ところが、道明寺や葛井寺をまわったあと、思ったより時間があまってしまったのと、野中寺に行くバスの本数が多いこともあり、一応行ってみるか、ということで寄ることにした。
そしてなんと、この野中寺が一番気に入ってしまった。行かなくてもいいかな、と思ってしまった自分が恥ずかしい。もちろん、道明寺の十一面観音も葛井寺の千手観音も会う価値は十分あったし、行って良かったと思う。しかし、一番良かったのは野中寺だった。自分の勘ほど当てにならないものはない、と苦笑しながら帰ってきた。
バスで行く必要があるからなのか、野中寺は他の二つのお寺に比べると拝観者がぐっと少なくなる。道明寺も少なかったが、野中寺はほとんどいなかったに等しい。矢印に沿って本堂の右手をさらに奥へ進むと受付がある。そして拝観料を払ってさらに中に入ると、小さな部屋に小さな厨子が置かれ、その中に小さな弥勒菩薩が鎮座していた。ちょうど私の他に二人の拝観者がいたので、三人で職員の方のお話を聞くことができた。
見た瞬間に、小さな仏像でかわいらしい、と思った。半跏思惟のしぐさで、右手の人差し指と中指をそっと頬に触れている。広隆寺や中宮寺の半跏思惟像と異なるのは、頬に触れている手の平が前を向いているということなのだそうだ。少し頭でっかちな感じがするが、あまり違和感はない。何をそんなに一生懸命考えているの?と声をかけたくなるような優しい雰囲気を持っている。
説明を聞いて初めて知ったことなのだが、この辺りは河内という場所で、南北朝時代など多くの時代に主戦場となり、この野中寺の伽藍もほとんどすべて焼けてしまったのだという。この弥勒菩薩像は小さかったから、急いで逃げるときに布にくるんで持ち出すことができたから、今日まで残っていたのではないかという。本堂の手前の両側に塔と金堂の礎石が残っていたが、なるほどそういうことだったのか、と思う。
塔の礎石 心礎 |
金堂の礎石 |
境内には梅の木があり、少しずつ咲きはじめていたが、満開まではもう少しかかりそうだった。野中寺、なかなかすてきなお寺だった。
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